こんにちは!
和紙写真家の大塚麻弓子です。
『禅』を世界に広めた仏教研究家である鈴木大拙先生。
彼が戦中に執筆していた『日本的霊性』という本。
当時の日本を憂いていた大拙先生は『日本人』についてを見直しました。
難しすぎるこの本を章ごとに分けて解説ブログを書いています。
今回は第5章 金剛経の禅です。
私たちが日々当たり前のように感じている「時間」。
過去があり、現在があり、そして未来へと流れていく――
この直線的な時間の捉え方は、私たちの思考や行動の基盤となっています。
しかし、仏教、特に禅の教えは、この当たり前を根底から問い直します。
『金剛経』に説かれる「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉は、まさにその核心を突くもの。
「心」は常に変化し続けるものであり、その動きは時間そのものだと禅は考えます。
では、なぜ過去も現在も未来も「捉えられない(不可得)」のでしょうか?そして、それが私たちの生き方にどう関係するのでしょうか?
「掴めない現在」に隠された真実
私たちは「今、ここ」という現在を生きていると感じます。しかし、徳山(とくさん)という高僧が茶屋の老婆から「あなたの点心(昼食)を求める心は、過去心、現在心、未来心のどれなのか?」と問われた際、答えに窮したという逸話は、現在の掴みどころのなさをよく表しています。
物理的な時間は、過去と未来の間に引かれた幅のない線のようなもの。捉えようとした瞬間、それはすでに過去へと過ぎ去ってしまいます。このように、私たちの思考が作り出す「現在」という概念は、実は非常に脆いものなのです。
しかし、禅が言う「不可得」は、単なる「捉えられない」という消極的な意味ではありません。むしろ、概念として捉えられないがゆえに、ありのままに「得られる」という、矛盾をはらんだ積極的な境地を指します。この理解こそが、禅の核心に触れる第一歩となります。
「諸行無常」は悲劇ではない
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と聞くと、多くの人は「はかないもの」「悲しいもの」といった感情を抱くかもしれません。平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」が象徴するように、この世のすべては移り変わり、いつかは滅びゆく、という認識です。
しかし、禅の視点から見れば、これは一面的に過ぎません。「無常」とは、すべてのものが絶え間なく変化し、動き続ける「生滅(しょうめつ)」の姿そのものなのです。水が常に流れ続けるように、万物が活動し続けることこそが、この世界の真実の姿なのです。
そして、この生滅の変化を深く見つめ、その生滅そのものを超え出たところに「寂滅為楽(じゃくめついらく)」の境地があります。これは、何かを失って無になることではなく、肯定と否定、生と死といった二元的な対立を超克した、絶対的な安らぎと喜びを意味します。つまり、無常は悲しいことではなく、むしろ生滅の真実を知り、その束縛から解き放たれることによる「楽」なのです。
時間に「使われる」のではなく「使う」生き方
禅の教えでは、心の動きを「念々不停流(ねんねんふじょうる)」と表現します。これは、水が絶え間なく流れるように、私たちの心が刻々と変化し続ける様を表しています。常に移り変わる心を捉えようとしても、それはすでに過去となり、掴むことはできません。
では、どうすれば良いのでしょうか?禅は、この「不可得」な心を、不可得のままに「可得」するという、一見矛盾した境地を示します。この境地に至るヒントとなるのが、雲門(うんもん)という禅僧の有名な言葉「日々是好日」です。
これは「毎日が良い日だ」という単なるポジティブ思考ではありません。雲門は、「十五日前は問わず、十五日以後(未来)に一句を言え」と問い、誰も答えられないと見るや「日々是好日」と自ら答えました。この言葉は、過去や未来といった概念的な時間にとらわれず、「今、ここ」という「絶対の現在」に徹することの重要性を示しています。
雨が降ろうが、風が吹こうが、あらゆる状況を「好日」として受け入れる。それは、相対的な価値判断を超えた、絶対的な肯定の境地です。禅の世界では、時間が私たちを支配するのではなく、私たちが時間を「使う」という立場に転じることが求められます。趙州(じょうしゅう)禅師が「お前たちは十二時に使われているが、わしは十二時を使っている」と語ったように、私たちは時間という制約の中で生きるのではなく、その中で主体的に行動する視点を持つべきなのです。
「死」すらも超える平常心
この時間の問題は、私たちの「生死(しょうじ)」という根源的な問いにも深く関係します。私たちは、生まれた時間を過去に、死の時を未来に捉え、生死の概念に囚われがちです。しかし、禅は、この囚われからの解放を説きます。
妙心寺の開山である関山国師(かんざんこくし)は、生死の解決を求めて訪れた僧に対し、「おれの所には生死などというものはないぞ」と答えて追い返したと伝えられています。これは、生死という概念にとらわれている限り、真の解決はないということを示唆しています。
重要なのは、「今、目の前のすべきこと」に全身全霊を注ぎ込み、それに「成りきる」ことです。その境地に達すれば、生死といった結果は問題ではなくなります。禅には「平常心是道(びょうじょうしんこれどう)」という言葉があります。これは、特別な覚悟をすることなく、日々、目の前のことに無心で取り組む姿勢こそが、そのまま「道」となるという教えです。平時であろうと、非常時であろうと、この平常心をもって生きることが、私たちに真の安心をもたらします。
公案が示す「直覚」の世界
禅の修行には、公案(こうあん)という、一見不条理な問いかけが用いられます。「隻手(せきしゅ)の声を聞け」や「趙州(じょうしゅう)の無字(むじ)を見て来い」などがその代表です。これらの公案は、私たちの常識的な思考や二元的な分別意識を打ち破るための「刀」として機能します。
公案の真意を理解するには、公案を客観的に分析するのではなく、自分が公案そのものに「成りきる」ことが求められます。この「成りきる」境地において、見性(けんしょう)、すなわち霊性的直覚が生まれます。見性とは、「見る者」と「見られるもの」という区別が消え、すべてが一体となる経験です。これは、理屈で理解するものではなく、無心で「三昧(さんまい)」(没頭の境地)に入ったときに自然に湧き上がる自覚なのです。
虚堂智愚(きどうちぐ)の公案「黒豆未だ芽ぶかざる時如何?」「黒鱗皴地(こくりんしゅんち)」もまた、この直覚の世界を指し示します。小さな黒豆の中に宇宙全体が宿るという視点は、概念的な時間や空間の制約を超えた「絶対の現在」を示唆します。「黒豆になれ」という教えは、対象と一体となり、分別を超えた世界を体験することの重要性を伝えているのです。
鼻は下を向く:ありのままの真理
大燈国師(だいとうこくし)の除夜の小参(しょうさん)では、僧が「旧年(過去)はどこへ行き、新年(未来)はどこから来るのか」と問います。これに対し、国師は「頭上一堆の塵」「脚下三尺の土」と答え、さらに「新旧に渉(わた)らないものがあるか」という問いには、「大抵鼻孔向下垂(だいたいびこうこうかすい)」(鼻は下に向かってついている)と答えます。
これは、難解な哲学的な説明ではなく、目の前の具体的な事実こそが、時空を超えた真理であるという禅の姿勢を表しています。「日々是好日」と同様に、私たちは過去や未来、あるいは様々な概念に囚われがちですが、禅は「ありのままの現実」の中にこそ、すべてが含まれていると教えているのです。
時間と一体となる生き方
禅が示す「三世心不可得」の教えは、単に時間を否定するものではありません。それは、私たちが普段囚われている直線的な時間認識から解放され、「絶対の現在」を生きることへの誘いです。
過去や未来に思い悩むことなく、今、この瞬間に全力を注ぎ、目の前のことに無心で「成りきる」こと。そうすることで、私たちは時間という制約を超え、あらゆるものと一体となる境地、すなわち真の自由と安心を見出すことができるでしょう。
日々の生活の中で、私たちはどれだけ「今」を生きられているでしょうか?ぜひ、この禅の視点を取り入れて、時間を主体的に「使う」生き方を探求してみてはいませんか。

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