皆さん、こんにちは。
和紙写真家の大塚麻弓子です。
私たちは今、世界的仏教学者、鈴木大拙の主著『日本的霊性』の深淵なる世界を旅しています。
このシリーズもいよいよ第四篇、「妙好人」に入ります。
仏教も悟りも日本的霊性も概念的でとても難しいのですが、このパートに入るとすこーしその片鱗が理解できるような気がしてきます。
「妙好人」とは一体、どんな人たちを指すのでしょうか?
鈴木大拙は、彼らを学問や教理を振りかざすのではなく、浄土系の信仰を自らの全存在で生き抜き、その思想を「体得」した篤い信者だと定義しています。
彼らは、理屈ではなく、身体と魂で信仰を生き抜いた人々。
その生き様は、まさに日本的霊性の極致を示すものなのです。
今回は、彼らの生き様から、私たち現代人が見失いがちな「真の霊性」とは何かを深く探求していきましょう。
赤尾の道宗:求道と実践の極致
まずご紹介するのは、戦国時代を生きた越中の武士、赤尾の道宗です。
蓮如上人に深く帰依し、その警護も務めた彼の生涯は、まさに求道と実践の極致でした。
道宗は、雪深い山道を命がけで寺に通い、時には京都へも頻繁に旅に出ました。
蓮如上人が遠方からの旅を気遣っても、彼は聞く耳を持ちません。
それは、蓮如上人を如来の権化と信じ、親鸞聖人が法然上人となら地獄へも行くと言った、その一途な心に通じるものがあったからです。
彼の修行は、厳しさを極めました。
夜は四十八本の割木の上に横たわり、阿弥陀仏が衆生のために積んだ苦行を思い起こす。
あるいは、庄川にせり出した枝にぶら下がり、「下は三悪道の早瀬だ、ぐずぐずしていてよいか!」と、自らの懈怠を厳しく戒めたと言います。
これは、他力に頼る浄土信仰の中にあって、自ら克己を重ね、「業を尽くす」という禅にも通じる精神性が、彼の中に生きていた証拠です。
道宗には、隣村の和尚に蹴られても、顔色一つ変えず、「前生の借金払いだ。まだまだあるのかも知れない」と答えた逸話が残っています。
これは、彼が人生の苦難を「業」として受け止め、それを自ら尽くし、「個己を超えた」境地へ飛躍していたことを示しています。
自己という存在そのものが「借金」であり、それを払い尽くすことこそが真の霊性であるという、大拙の深い洞察がここにあります。
道宗の「思立条二十一箇条」は、彼の具体的な実践規範であり、「後生の一大事、命のあらん限りは、油断あるまじき事」という第一条に代表されるように、終始一貫した求道の姿勢を貫くことを示しています。
彼は、世間法を重んじつつも、内には深い「一念のたのもしさ、ありがたさ」を保ち、それを誇示しない「つつしみ」を大切にしました。
これは、霊性的直覚が安易な神秘主義に陥る危険性への警戒でもあったと大拙は考察しています。
浅原才市:愚痴の中の仏
そしてもう一人、明治から昭和を生きた石見の妙好人、浅原才市をご紹介します。
彼は履物屋を営むごく普通の凡夫でしたが、その内には深遠な霊性が宿っていました。
才市が残した、仕事の合間に無技巧に書き綴られた数々の「歌」は、彼の信仰の証です。
才市の歌に一貫して現れるのは、「南無阿弥陀仏」が彼の全存在そのものであるという直覚です。
彼は「才市が下駄を削っているのではなく、南無阿弥陀仏が下駄を削っている」と歌いました。
これは、彼の意識と念仏が完全に一体化し、主体そのものが念仏となり、その念仏が自己を自覚している境地を示しているのです。
彼の歌は、「慚愧と歓喜」という一見矛盾する感情が、絶え間なく交錯するものです。
自分の愚かさ、罪深さに深く慚愧しながらも、それと同時に尽きることのない喜びを味わう。
鈴木大拙は、この矛盾こそが「南無阿弥陀仏」という一点において、矛盾なく統合されていると解き明かします。
「慚愧がすなわち歓喜、歓喜がすなわち慚愧」であり、それこそが「南無阿弥陀仏」そのものなのです。
才市の往生観もまた独特です。
彼は死後の極楽往生についてほとんど語りません。
「臨終をすんで参るぢやない。臨終すまぬとき参るごくらく」と歌い、極楽は死後ではなく、今この瞬間にこそ実現していると説きます。
彼にとって、日々の下駄削りそのものが、「遊戯三昧(ゆげざんまい)」としての衆生済度でした。
日常の行為がそのまま霊性の発露となり、衆生を救う行為になっているという、驚くべき境涯です。
そして、才市の最も象徴的な歌の一つがこれです。
「世界もぐちで、わしもぐちで、あみだもぐちで、どうでもたすけるぐちのおやさま。南無阿弥陀仏。」
「あみだもぐち」という大胆な表現は、才市でなければ言えなかったでしょう。
これは、仏が衆生の「愚痴」をそのままに受け入れ、浄化を求めるのではなく、愚痴そのものが「南無阿弥陀仏」によって裏打ちされ、超個己の領域に引き取られるという、日本的霊性の最も特殊で深遠な側面を示しています。
日本的霊性の共通性:情性と知性
鈴木大拙は、才市の「南無阿弥陀仏」の境地を、禅の趙州和尚の「明珠」や「仏即是煩悩・煩悩即是仏」といった思想と対照させます。
禅が知性的、客観的な表現を用いるのに対し、浄土系は「親さま」「ありがたい」といった情性的な言葉で語る。
しかし、その奥底には、分別智を超え、矛盾を矛盾のままに肯定し、自己の内なる仏性を自覚するという、共通の「日本的霊性」が存在すると大拙は指摘します。
「娑婆ながら、六字の中に居るぞうれしや」と歌う才市のように、娑婆即浄土の境地を体験的に語ることは、理論的思考では到達し得ない霊性的直覚のなせる業です。
「一念発起もここにある」と歌う才市の言葉は、まさしく今この瞬間に、久遠の仏と凡夫が一体となる「真実の南無阿弥陀仏」にぶつかることの重要性を物語っています。
まとめ:凡夫の日常に宿る霊性
鈴木大拙『日本的霊性』第四篇「妙好人」は、日本的霊性が、単なる学術的な概念ではなく、ごく普通の、しかし極限まで信仰を突き詰めた人々の具体的な生活の中に息づいていたことを、私たちに鮮やかに示してくれます。
道宗の厳格な求道と才市の純真な「南無阿弥陀仏」への没入は、理屈を超えた「体験としての信仰」の深さと、凡夫の「愚痴」の中にこそ仏の慈悲が宿るという日本的霊性の本質を、力強く訴えかけています。
彼らの生き様は、現代を生きる私たちに、日々の生活の中にこそ深い意味を見出し、自己の本質と向き合うことの重要性を教えてくれます。
このブログ記事が、読者の皆さんの心に響き、鈴木大拙の思想に触れるきっかけになれば幸いです。
ぜひ、この記事を参考に、書籍本体も手に取ってみてください。そして、ご自身の「霊性」の探求を深めてみませんか?
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ただ、正直に言って非常に読むのが難しかったです。
ですので本を片手にこちらの音声を聞きながら読んでいただけると読みやすくなるかなと思います。
(読み間違いなどありますが、出来る限り調べているのですが、出てこない場合も多く…見逃していただけると幸いです。)
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