こんにちは!和紙写真家の大塚麻弓子です。
私は仏教に全く興味がありませんでした。
色々な困難に頭を悩ます日々で出会った鈴木大拙という一人の仏教研究家。
神学者を妻に持ち、自らも禅の修行をし、在家でありながら仏教を始め宗教から人を深く探究する鈴木大拙。
彼が第二次大戦中に書いた著書『日本的霊性』を篇ごとに解説しています。
今回は第三篇。
「南無阿弥陀仏」――この言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか?
多くの人にとって、それは仏教の教えの一部であり、あるいは信仰の象徴かもしれません。
しかし、世界的な仏教学者・鈴木大拙は、この「念仏」にこそ、日本人の心の奥底に眠る「日本的霊性」が最も鮮やかに現れていると説きました。
鈴木大拙著『日本的霊性』
今回は第三篇「法然冷製と念仏称名」を深掘り解説します。
なぜ、鎌倉時代の動乱の中で、ただ念仏を唱えることが、日本人の根源的な精神を目覚めさせたのでしょうか?
この記事を読めば、あなたの「日本人」としての心のあり方、そして信仰に対する見方が、きっと大きく変わるはずです。
1. 平安の「上っ面」と鎌倉の「反省」:霊性覚醒の転換点
鈴木大拙は、平安時代の貴族文化を「繊細で優美」としながらも、それは「大地に根ざしていない」「上っ面に浮動している」、つまり現実世界から遊離した、どこか「箱庭的」「温室的」なものだったと指摘します。
当時の浄土思想も、現世の延長として極楽を捉える観念的なもので、人々の魂の深い部分には届いていませんでした。
日本人の「霊性」は、まだ本格的に目覚めていなかった、と大拙は言うのです。
しかし、歴史は大きく動き出します。
『平家物語』に描かれる源平の争乱と無常観は、それまでの華やかな貴族社会を打ち砕き、人々を「人生に対する痛切な反省」へと駆り立てました。
この「反省」こそが、真の「霊性的生活」の始まりだと大拙は強調します。
反省とは、単なる後悔ではありません。
それは、それまでの盲目的な自己や環境を批判的に見つめ、「否定」する行為です。
この「否定」の経験こそが、私たち人間だけが持つ「自由」と「創造」の源泉であり、真の霊性が発露する土壌となるのです。
鎌倉時代の浄土系思想が説く「今生の否定」は、まさに当時の厳しい現実と合致し、平安期のように「外から与えられた」信仰ではなく、日本人の心の奥底から「内発的に生まれた」霊性の覚醒だったのです。
2. 法然上人の出現:「愚痴」の中に光を見出す「一心」の念仏
この霊性的覚醒を最も象徴的に体現したのが、法然上人でした。
彼は、当時の学問僧や知識人たちとは異なり、「愚痴」、すなわち無学文盲の庶民や、戒律破りの者、あるいは社会の底辺で生きる人々にこそ、真の霊性が宿ると見抜きました。
学問や分別、世間の名声に囚われない「白木の念仏」、つまり理屈抜きに「生まれつきのまま」唱えられる念仏こそが、真の霊性的直覚に到達する道だと法然は説いたのです。
法然が説く念仏は、単に極楽往生のための手段ではありませんでした。
それは「念仏即往生」という絶対的な一体感、「一心」の境地を指します。
論理的思考は「念仏」と「往生」を別々のものとして捉えがちですが、法然の霊性的直覚は、その両者が「南無阿弥陀仏」という一声の中に「絶対矛盾の自己同一」として統合されていることを示しました。
生と死、善と悪といった相対的な概念が、念仏という一点において矛盾なく一つになる、という深遠な境地です。
彼は「智恵や持戒を助けにしない」念仏、つまり自己の相対的な判断や倫理観を全て打ち破り、根源的な「無知の知」へと立ち返ることを求めました。
これにより、個人の意識の最も深い底にある「インディヴィデュウム(Individuum):自覚的・現実的な個人」の極致、すなわち「天上天下唯我独尊」という普遍的な霊的境涯に到達できると大拙は説きます。
法然上人の『一枚起請文』に凝縮される「別の子細さふらはず」という簡潔さは、複雑な教義や学問的詮議を排し、体験としての「信」の核心を突き、真に「経験事実の把握につとめる」日本的霊性の本質を露わにしています。
これは、当時の学匠たちが抽象的な論議に終始し、霊的な真実の境地に触れていなかったことへの、法然からの痛烈な問いかけでもあったのです。
3. 「南無阿弥陀仏」に秘められた力:報恩から「胴の坐り」まで
大拙は、念仏称名が単なる外形的な行為や、仏への感謝に留まらない、多層的な意義を持つことを明らかにします。
浄土真宗の蓮如上人は「弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり」と言いました。
大拙はこれを、念仏を唱える者が、称えられる阿弥陀仏と一体となる境地、すなわち「個己を捨てて超個己の霊性に目覚める」ことを意味すると解釈します。
これは、私たちを救う「本願」が、実は仏が私たち自身に呼びかける、自己自身の覚醒の呼び声であるという、深遠な意味合いを含んでいます。
また、念仏は「仏恩報謝」のためとされますが、これは意識的な感謝の念ではなく、「自ら念仏が申される」という、霊性が自然に発露する姿を指します。
外から強制されるものではなく、内側から湧き出る「信」の現れなのです。
さらに、鎌倉武士の生き様と密接に結びついた、正三道人の「截断の念仏」や「飛び込み念仏」の例を通して、念仏が善悪是非の分別を打ち破り、生死の極限状況で「一心」を貫く実践的な力となることを示します。
これは、禅の「胴の坐り」といった身体的な安定や、猛獣退治、敵陣突入といった極限状況における「霊気」の発露にも通じ、概念を超えた「白木の念仏」、つまり理屈抜きに実践される念仏こそが、日本的霊性の具体的な姿なのです。
結あなたの内なる「日本的霊性」
法然上人が、当時の知識人ではなく、無学文盲の民衆の魂にこそ霊性の覚醒の基盤を見出したことは、日本霊性史における画期的な転換点でした。
彼の教えが、社会の片隅で生きる人々、日々の暮らしに追われる人々に深く響いた事実は、日本的霊性が、抽象的な概念や学術的な議論の産物ではなく、一般民衆の「春の大地のごとく自然の露い」を持った魂の底から、自発的に湧き上がってきたものであることを雄弁に物語っています。
鈴木大拙が『日本的霊性』を通して伝えたかったのは、外来の仏教を単に受け入れるだけでなく、それを自己の根源的な精神と照らし合わせ、最終的に「信」という行為と「念仏称名」という具体的な実践を通して、この国の文化と人々の心に深く根を下ろしていった、日本の霊性の独自性と奥深さです。
私たちの中に脈々と受け継がれる「日本的霊性」。
それは、多様な文化を取り込みながらも、自らの本質を失わず、むしろそれを深めてきた、日本人の心の奥底にある輝きです。
あなた自身の心の奥底に眠る「日本的霊性」は、今、何を語りかけているでしょうか? この深遠な問いに向き合うことが、現代に生きる私たちにとって、新たな自己発見の鍵となるかもしれません。
ぜひ、この記事を参考に、書籍本体も手に取ってみてください。そして、ご自身の「霊性」の探求を深めてみませんか?
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ただ、正直に言って非常に読むのが難しかったです。
ですので本を片手にこちらの音声を聞きながら読んでいただけると読みやすくなるかなと思います。
(読み間違いなどありますが、出来る限り調べているのですが、出てこない場合も多く…見逃していただけると幸いです。)
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