突然ですがあなたは、私たちの「心」の奥底に何があるのか、本当に知っているでしょうか?
こんにちは!和紙写真家の大塚麻弓子です。
「毎日、頑張っているのに、なぜか心が満たされない…」
「現実がうまくいかなくて、自分に自信が持てない…」
「『夢を持て』『目標に向かって頑張れ』って言われるけど、それって本当に私が心から望んでいること?」
多様化する価値観の中で、人生の道標が無くて迷子になっている人が大勢います。
社会が求める「理想」に合わせようと無理をして、心が疲弊してしまっている人は、決して少なくありません。
私たちは、たくさんの情報や「こうあるべき」という価値観の中で、知らず知らずのうちに心の奥底にある大切なものを見失いがちです。そんな時、東洋と西洋の精神を繋いだある思想家の言葉が、私たちに深く問いかけます。
彼の名は鈴木大拙。彼の代表作である**『日本的霊性』**には、頑張ることに疲れた私たちが、本当の「心の根源」を取り戻すための深いヒントが隠されています。
この本は、単なる歴史書や宗教書ではありません。
日本人の精神がいかにして形成され、いかにして「霊性」という心の奥底にある輝きに目覚めていったのかを、丹念に紐解いてくれます。
普段は意識しないけれど、私たちの文化や行動に深く影響を与える**「日本的霊性」**というものがある、と世界的な仏教学者・鈴木大拙は語ります。
今回は、鈴木大拙の主著『日本的霊性』の第二篇を深掘りし、この「日本的霊性の顕現」の物語を解き明かします。
外来のものだった仏教は、なぜこの日本でこれほどまでに深く根ざし、独自の進化を遂げたのか?
それは単なる受容ではなく、私たちの祖先の心が能動的に働きかけた結果なのです。
1. 「日本的」ってなんだ? 外来思想との不思議な関係
鈴木大拙先生は、日本の敗戦後の混乱期に、安易に使われる「日本的」という言葉に警鐘を鳴らしました。
「洋服を着た私たちも日本人か西洋人か?」
と問うように、表面的な時間や地域で「日本的」を定義するのは難しい、と彼は言います。
では、何が「日本的」なのでしょうか? 大拙先生はこう述べます。
外から来たものでも、千年以上の時間をかけて日本の風土に根付けば、それはもう「日本的」なものになる、と。
アサガオや菊、チューリップといった植物が良い例です。
これらは海外から来ましたが、今ではすっかり日本の風景に溶け込んでいますよね。
仏教も同じです。インドから来た仏教は、単なる「輸入品」ではありませんでした。
大拙は、元々日本人の心の中に**「日本的霊性」**が存在し、それが仏教という“縁”に触れて、本来持っていたものが表面に現れたと考えます。
つまり、仏教が日本化したのではなく、日本人の根源的な精神が、仏教という形を通して「自己を認識し、顕現した」のです。
これこそが、大拙の示した主体的で逆転した視点です。
2. 中国における仏教:大地から離れない実践主義
仏教はインドで生まれ、中国を経由して日本へ伝わりました。中国の人々は、古くから**「実際主義」**で、大地に根ざした生活と祖先崇拝を重んじる民族でした。
そのため、出家して独身生活を送るインド仏教の僧侶の姿は、子孫を絶つことを不孝とする中国の伝統的価値観と正面衝突します。
動物の供物を避ける仏教の戒律も、多様な供物で祖先を祀る中国の習俗とは合いませんでした。
しかし、インド仏教の思弁的な深さには、中国の人々も反論できませんでした。
そこで仏教は、中国の風土と精神に合わせて、独自の発展を遂げます。
特に、**「禅宗」と「浄土系の念仏」**が中国で大きく花開きました。
これらは、インド仏教の思想をそのまま輸入するのではなく、中国民族の「実証性」や「実用主義」に適合した結果だと、大拙は指摘しています。
大拙先生は、**「霊性は常に具体的なることを貴び、大地を離れることを嫌う」**と強調します。
インドで仏教が衰退した主な理由も、あまりに抽象的に概念化し、大地から離れてしまったことにあると喝破しました。
中国で仏教が再生したのは、中国民族の「実証性」や「実用主義」が、仏教に具体的な「行動」や「利益」という側面を与えたからなのです。
3. 鎌倉時代における日本的霊性の目覚め:大地性への回帰
平安時代の文化は、確かに繊細で優美でした。
「物のあわれ」を重んじ、花鳥風月を愛でる文化は素晴らしいものです。
しかし、大拙先生はこれを**「大地に根ざしていない」「上っ面に浮動している」**と評します。
「箱庭的」「温室的」な文化であり、真の現実性や骨太さに欠け、心の根源にまで深く触れるには至らなかった、と見ていたのです。
平安時代についての考察が書かれている第一篇は詳しくはこちらをご覧ください。
しかし、鎌倉時代になり、政治と文化が**武士階級を背景とした「大地性」**を帯びることで、**日本的霊性が真に「自己に目覚めた」と指摘します。
この時代には、中国との交通が再開され、蒙古襲来の脅威など、外部からの大きな刺激がありました。
こうした外的な「事変」**が、それまで意識されなかった日本人の「内なるもの」を目覚めさせた、と大拙先生は考えたのです。
武士たちは「禅」を、そして庶民は「浄土思想」をそれぞれ受け入れ、日本の生活や芸術に深く浸透させていきます。
特に浄土系思想は、日本的霊性の「直接顕現」として、大地に親しむ人々の間に結実したと強調されます。
4. 親鸞聖人の出現と「一人」の自覚:日本的霊性の極致
大拙先生は、親鸞聖人を**「日本的霊性に目覚めた最初の人」として、極めて高く評価しています。
親鸞は、京都の公家文化や学問の世界から離れ、越後(今の新潟)の辺地で、農民や庶民と共に生活しました。この「大地に根ざした真実の生活」**こそが、彼の思想の源泉だったのです。
この体験を通じて、親鸞は**「弥陀の五劫思惟の願は、ひとえに親鸞一人のためなりけり」という「一人」の自覚に至ります。
この「一人」は、決して単なる個人的な存在ではありません。
「超個己(ちょうこき)の人」**、すなわち普遍的な存在でありながら、同時に最も具体的な「私」であるという、日本的霊性の核心を表しているのです。
禅が「知性的」に超個己を捉えるのに対し、真宗は「情性的」に「私(一人)」という具体的な形を通して、超個己を体得すると説明されます。
『歎異抄』に代表される親鸞の思想は、「大地の具体性」と結びつき、平安の「物のあわれ」を超えた**「念仏のまこと」、つまり霊性の深さ**へと到達しました。
社会の底辺で「業の重圧」を感じながら生きる漁師や遊女といった人々が、法然の説く念仏に救いを見出した話は、まさに「霊性が常に具体的な現実性の中に現れる」ことの証なのです。
5. 霊性の「まこと」と「深さ」:矛盾を受容する心
平安時代の「物のあわれ」は、繊細な感情や移ろいやすい自然を詠むもので、まだ「感覚的・情性的」な領域に留まっていました。これに対し、鎌倉時代の親鸞は、「念仏のまこと」を見たことで、この「物のあわれ」を超え、**「霊性的直覚」**へと深化させました。
「まこと」とは、感性や感情を超え、個人の存在の根源、つまり「超個己」に触れることで得られる絶対的な真実性です。
それは、具体的な大地の上で、自らの業と向き合い、「一人」として「絶対者」に全幅の信頼を置くことで初めて体現される、と大拙先生は説きます。
親鸞の「念仏は浄土に生まれる種子か、地獄に堕ちる業か、まったく知らない」「念仏を信じるも捨てるも、それぞれの計らい」といった言葉は、概念的な思考を超えた「霊性的直覚」の現れです。
ここに、鎌倉武士の「莫妄想!(妄想するなかれ!)」「驀直向前!(まっすぐに進め!)」といった禅的な断固たる精神を見出すことができる、と大拙先生は言います。
概念を打ち破り、実践と直感を重んじる、まさに「大地文化」「男性文化」としての鎌倉文化の特色であり、「日本的」霊性の深奥を示すものなのです。
6. 神道との対比:情性から霊性への飛躍
鎌倉時代には、伊勢神道も日本的霊性の目覚めを示すものとして現れました。
しかし、伊勢神道の直覚は「情性的」な範疇に留まり、親鸞が悟ったような**「絶対者の絶対悲(無辺の大悲)」**には至らなかったと指摘します。
大拙は、真の霊性的直覚は、感性的・情性的直覚が一度「否定の炉輪をくぐって」初めて成立する、と言います。
これは、「あるがままのある」が一度「ある」が「ない」という否定を経由し、再び「あるがまま」に還ることで、本来の「あるがままのある」が実現されるという**「否定即肯定、肯定即否定」という矛盾の論理**です。
神道にはこの経験が欠けているため、物足りなさを感じさせると指摘されるのです。
霊性的直覚は、神道のような集団的な傾向ではなく、個己の霊における孤独な直覚によって可能になる、という点も強調されます。
そして、神道が宇宙生成論を直線的な時間性で解釈するのに対し、日本的霊性は時間を**「無限大円環性」として直覚すると説かれます。
この円環性においては、中心がどこにでも存在し、「親鸞一人のためなりけり」という言葉が示すように、個己でありながら超個己であるという「矛盾」**が成立します。
この矛盾こそが、霊性的直覚の最も具体的かつ普遍的な性質を表現している、と大拙は結論付けています。
結び:私たちの中に息づく「日本的霊性」
浄土系思想が仏教を「通俗化した」という見方は、適切ではありません。
大拙先生は、真の宗教は霊性的自覚に基礎を置いており、人為的な操作で作り上げられるものではないと言います。
仏教の受容は、単に大衆に合わせて質を落としたのではなく、大衆側の霊性的生活に**「何か自分で働き出るもの」があったからこそ可能になった、「函蓋相応(ぴったりと合うこと)」のような相互関係**なのです。
道元禅師の「師が仏を蝦蟇蚯蚓(がまきゅういん)と言わば、蝦蟇蚯蚓を仏と知るべし」という言葉や、親鸞聖人の「よきひとの仰せを蒙りて、ずる外の子細なきなり」という告白も、単なる倫理的な服従ではありません。
*蝦蟇がカエル、蚯蚓はみみず
霊性的自覚の領域での「自契(じけい)」、つまり自らが納得し、矛盾を矛盾のまま受け入れる**「信」**によって成立したことだと、大拙先生は解説しています。
鈴木大拙が『日本的霊性』を通して伝えたかったのは、日本の霊性が、単なる受容ではなく、独自の能動的な働きを持ち、特に親鸞の思想においてその真髄が顕現した、ということです。
私たちの中に脈々と受け継がれる**「日本的霊性」**。
それは、外来の文化を取り込みながらも、自らの本質を失わず、むしろそれを深めてきた、日本人の心の奥底にある輝きです。
あなたの心の奥底に眠る「日本的霊性」は、今、何を語りかけているでしょうか? この深遠な問いに向き合うことが、現代に生きる私たちにとって、新たな自己発見の鍵となるかもしれません。
ぜひ、この記事を参考に、書籍本体も手に取ってみてください。そして、ご自身の「霊性」の探求を深めてみませんか?
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ただ、正直に言って非常に読むのが難しかったです。
ですので本を片手にこちらの音声を聞きながら読んでいただけると読みやすくなるかなと思います。
(読み間違いなどありますが、出来る限り調べているのですが、出てこない場合も多く…見逃していただけると幸いです。)
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また、動画内の写真は全て私自身が日本中を旅して撮影した作品となります。
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